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山城・近江・丹波境の三国岳から見ていきます。 愛宕郡久多上村(旗本朽木氏知行地/左京区久多上の町)と高嶋(近江国絵図での記載)郡桑原村(旗本朽木氏知行地/高島市 朽木桑原)の境になりますが、両国絵図に顕著な往還や国境の小名は見えません。 旧高旧領取扱高データベースで見ますと、愛宕郡久多各村は「朽木主計助知行」・高島郡桑原村は「朽木之綱知行」となっています が、同一人物で朽木宗家の当主です。よって、国境ですが領境ではありません。参考:元治元(1864)年の朽木主計助之綱『家茂右 大臣御任、従一位昇叙ニ付一札』。 〇愛宕郡久多河合村(旗本朽木氏知行地/左京区久多河合町)と高島郡小川村(旗本朽木氏知行地/高島市朽木小川)を結ぶ とここへ(山城国絵図) 「牛馬通なし」 府道県道781号線が該当するでしょうか。前述のとおり国境ですが領境ではありません。両国絵図ともに達筆で読みづらいですが、 聖心女子大学図書館デジタルギャラリー 近江国絵図(元禄14年)からいちおう「とこ越」と読んでいます。 〇同じく久多河合村と滋賀郡榎村(延暦寺領・公料〈7.5石のみ 大津代官支配〉/大津市葛川梅ノ木町)を結ぶ おそこへ谷(天保 の山城国絵図)・おそこへ(元禄の山城国絵図)/おそ越(近江国絵図) 「牛馬通なし」 こちらも府道県道781号線が該当しますでしょうか。平凡社日本歴史地名体系 滋賀県:大津市>北部地域>榎村では「郷帳類では 一貫して榎(榎木)村」とされ、「針畑川沿いの鍵坂を経て久多越で山城と通じる」とされています。一方、角川日本地名大辞典 滋賀県 大津市では榎村ではなく梅ノ木村(近世)として掲載されています。 森幸安の山城国地図(寛延2<1749>年)では小川村とを結ぶ道を久多越、榎村とをつなぐ往還が榎木峠越となっています。 〇愛宕郡小出石村(典薬頭半井家と勝林院の相給/左京区大原小出石町)と滋賀郡途中村(河内狭山領/大津市伊香立途中町) を結ぶ 小坂峠(天保の山城国絵図)/山城峠(近江国絵図・元禄の山城国絵図) 平凡社日本歴史地名体系 滋賀県:大津市>北部地域>途中村には「山城国から通じる若狭街道は途中峠を越えて当地で近江に入 り」となっており、この往還が該当しそうです。今昔マップから 1/20,000 伊香立 明治26年測図 明治28.4.29発行で見ても 顕著な往還は途中越しかありません。 〇小野山 山城国地図にのみ記載があります。今昔マップから 1/20,000 大原 明治42年測図 大正1.11.30で見る小野 山。現在の標高は670mとされていますが、明治42年当時は678.6mとなっています。 〇愛宕郡上野村(典薬頭半井家・妙法院他相給/左京区大原上野町)と滋賀郡上仰木村(公料・淀領/大津市仰木西部)を結ぶ 笹ヶ嶺(山城国絵図)/笹ヶ峯(近江国絵図) 「牛馬通なし」 平凡社日本歴史地名体系 滋賀県:大津市>北部地域>上仰木村>仰木越には「笹ヶ峯ともいう」とされています。今昔マップから 1 /20,000 大原 明治42年測図 大正1.11.30で見た仰木峠。 〇修禅嶽 山城国絵図にのみ記載があります。この修禅嶽は多くの山城国絵図に記載があるのですが、天保の山城国絵図では相 輪塔(「木に棠」の文字は環境によっては文字化けしますので、以下塔の字を使います)や西塔の北に見えますが、西尾市岩瀬文庫山 城国図(近世後期写とされる)では修禅峯が西塔や本黒谷(青龍寺)の南に書かれています。 また、徳島大学図書館 山城州大絵図では横川(近江国の横川中堂と思われる)の西に阿弥陀ヵ嶽が見えます。修禅嶽ではなく阿 弥陀ヵ嶽が載る絵図もいくつかあります。阿弥陀ヵ嶽は場所的に横高山かと思いましたが、横高山(釈迦ヶ岳)とする地図もあり、修禅 嶽(峯)も阿弥陀ヵ嶽も手掛かりはありません。 〇小比叡 名所 一方の近江国絵図には、修禅嶽とほぼ相対するくらいの場所に小比叡が書かれています。一般に小比叡は日吉 神社奥の院である牛尾山(八王子山)のことかと思いましたが、近江国絵図には八王子三宮が掲載されており、そこから考えるとこの 小比叡は牛尾山のことではありません。 話がややこしくなるので触れたくないのですが、森幸安の山城国地図(寛延2<1749>年)には大原越と横川路の間に小比叡が描か れています。しかしこの絵図は上野から本黒谷への道と、八瀬から松尾坂を経て本黒谷への道が一つになり横川路となっています。 今昔マップから 1/20,000 大原 明治42年測図 大正1.11.30発行で見てもその行程には無理があります。山城国地図が 示す小比叡も横高山もしくは水井山を指しそうですが、この地図で何かを判断することは出来ません。 小比叡も具体的になにを意味するのかを見つけられていません。 〇相輪塔 山城国絵図はこの相隣塔を紹介したくて書き始めたと言っても過言ではありません。このリアルな描写を初めてみた時に は鳥肌が立ちました。両国絵図に掲載がありますが、特に元禄の両国絵図では塔の半分だけが黒塗りされており、半分は白抜きで す。これは相輪塔が両国の間に建ち、両国に属するものであるということなのでしょう。 〇西塔 山城国絵図にのみ記載があり、お堂状のものが一つ描かれていますが、近江国絵図には根本中堂・文珠楼等いくつもの施 設が具体的に描きこまれています。 〇蛇池 雲母越のすぐそばにありますので、横川の蛇ヶ池(龍ヶ池)とは別のもののようです。検索すると蛇ヶ池遊園地や蛇ヶ池スキ ー場(比叡山人工スキー場)などが引っかかりますが、池自体は見つけられません。Yahoo!マップで見たここが人工スキー場跡のよう です。 〇愛宕郡一乗寺村(元御除領他、寺領・公家等33の相給/左京区一乗寺各町)と滋賀郡上坂本村(延暦寺領・25石余は西教寺領 /大津市坂本本町・坂本)を結ぶ 雲母越 今昔マップから 1/20,000 大津 明治42年測 明治45.4.30発行で見ますと、現在はこちらの道が雲母越とされています が、この往還は萬(黒や常かもしれません)谷越とされているように見えます。雲母越は大比叡山頂付近を越えるこちらの往還とされて います。同 1/25,000 京都東北部 大正11年測図 大正15.1.30発行で見ると、現在の雲母越と同じ道となっています。 両国絵図の比叡山及び大嶽四明洞の位置からすると、絵図に示された雲母越は現在の雲母越かもしれません。 〇大嶽四明洞 四明岳 〇比叡山(山城国絵図)/大比叡山 名所(近江国絵図) 〇白取 無動寺 近江国絵図にのみ記載があります。今昔マップから 1/20,000 大津 明治42年測 明治45.4.30発行で 見た無動寺明王堂。 〇一乗寺村(前述)と滋賀郡穴太(あのう)村(円満院他寺領/大津市穴太)を結ぶ 白取越 志もく嶋(山城国絵図)/同 もく嶋(天 保の近江国絵図) 天保の近江国絵図では壺笠山の南を伝うとなっていますのでこのルートになりましょうか。穴太村の現在地名を穴太としていますが、 角川日本地名大辞典 滋賀県 大津市 穴太村(近世)では、盛安寺・寶光寺(ともに坂本1)は穴太村に所在とされていますので、若 干区画整理があっているようです。天保の近江国絵図では「もく嶋」と読みましたが、元禄の近江国絵図では「志もく嶋」として白取越と 四ツ佛の間ほどにありますので、単に「し(志)」が消えているだけかもしれません。 〇愛宕郡白川村(幕末は照光院・聖護院領/左京区北白川各町)と滋賀郡山中村(二条家領/大津市山中町)を結ぶ 白川越(天 保の山城国絵図/四ツ佛(近江国絵図及び元禄の山城国絵図) 角川日本地名大辞典 滋賀県 大津市 山中村(近世)では「滋賀・山城の国界に南面・西面の2つの石仏がある」とされています。 山中の西教寺仏像(大津市歴史博物館 大津の歴史辞典)が有名ですが、同辞典が言う石仏は「国界に南面・西面」とされていること から重ね石の仏像(同じく大津の歴史辞典)のことで、これが国境の小名の四ツ仏なのでしょう。重ね石の記事に書かれる国境の碑は 近代のものと判断しています。 府道県道30号線旧道。今昔マップから 1/20,000 大津 明治42年測図 明治45.4.30発行で見た山中越。 〇宇治郡四宮村(禁裏本御料・寺領/山科区四ノ宮各町)と滋賀郡五別所村の内 神出村(円城寺他寺領/大津市神出開町他)を 結ぶ 小関越 今昔マップから 1/20,000 膳所 明治42年測図 大正1.8.25発行で見ると、小関越はこことされていますがこの地点は近 江国内になります。下で触れます藤尾川が西南に流れていますので、峠境ではありません。国境(府県境)が微妙で、ここで一旦山城 国に入る・もしくはオンラインになっているかもしれませんが、これより確実に山城国と言えるのはこちらになるかもしれません。 小関越は川沿いの道とされていますが、この川は山城国絵図では四ノ宮川・近江国絵図では藤尾川とされています。現在の河川名 で見ると、北からの藤尾川と東からの四ノ宮川がここで合流し、以降、四ノ宮川〜山科川〜宇治川〜淀川の流れとなるようです。 〇同じく四宮村と滋賀郡藤尾村の内 横木村(聖護院領/大津市横木)は、 かぢ川井路(山城国絵図)/梶川(天保の近江国絵 図)の井路中央が境 旧東海道上の山城・近江国境です。今昔マップから 1/20,000 膳所 明治42年測図 大正1.8.25発行で見た東海道上の 府県境。Googleストリートビューで見るかぢ川井路(梶川)。 現代地図で見ると、山科区髭茶屋屋敷町(禁裏御料/宇治郡髭茶屋町〈旧高旧領には髭茶屋村として掲載〉)・八軒屋敷町(禁裏御 料/宇治郡八軒町)と大津市横木・追分町(公料/滋賀郡大津町の内追分町)の間で、一旦東海道上で京都府と滋賀県がオンライン になるのですが、天保の近江国絵図を見ると追分町と横木村の間で確かに近江国は東海道の線まで凹んでいます。 前述しましたとおりこの辺りは稜線境ではないので、東海道逢坂峠は近江国内になります。近江国絵図では大津町の内 大谷町(公 料/大津市大谷)の横に「相坂」と記されています。 角川日本地名大辞典 京都府 京都市 髭茶屋町(近世)には「当町前の道路端に『禁裏御料傍示杭』が立てられ」とされています。 同辞典 滋賀県 大津市 追分町(近世〜近代)には「追分町の一番南は髭茶屋町」とされており、東海道を挟み山城側と両髭茶屋町 だったようです(大津百町谷組の中に髭茶屋町も見えます)。 〇八軒町(前述)から国境への往還が山城国絵図にのみ描かれています。 こちらは奈良街道(大津街道)です。天保の山城国絵図には「近江国追分町の内長町国境」までの距離が書かれています。元禄の 山城国絵図で見ると八軒町は(新町が出来つつあったのででしょうが)国境の小名として書かれており、「近江国にては(国境の小名 が)長町と申しそうろう」となっています。 〇宇治郡西笠取村(知恩院他寺領/宇治市西笠取)と滋賀郡寺邊村(石山寺領/大津市石山寺・太平他)を結ぶ 陀羅尼谷(山城 国絵図)/大平山(近江国絵図) 今昔マップから 1/20,000 膳所(ちょうど継ぎ目で、宇治が表示される場合もあります) 明治42年測図 大正1.8.25発行で 見ると、ここに陀羅谷が見えます。たぶん絵図がいう陀羅尼谷と明治42年地図が示す陀羅谷は同じものでしょう。 西笠取が東笠取を囲むような面白い姿をしていますが、明治42年地図が示す陀羅谷は宇治郡醍醐村(醍醐寺他寺領/山科区醍 醐各町)域になります。往還としては西笠取と寺辺(石山寺)を結ぶのでしょうが、この地点では国境の相対村は醍醐村です。 〇宇治郡東笠取村(理性院他寺領/宇治市東笠取)と滋賀郡平津村(公料/大津市平津)をつなぐ 岩間山(山城国絵図)/水舟山 (近江国絵図) 山城国絵図には岩間観音の立派なお堂が描きこまれています。1/20,000 宇治 明治42年測図 明治45.5.30で見た岩間 山と岩間山正法寺。往還はこちらになりますでしょうか。また両国絵図に「このところ観音堂より四町(約436m)亥子方、半腹の上に国 境塚あり」と記されています。同地図で見ると岩間観音から430mの国境上はこのあたりになりますが、方角としては亥子よりも子とな るような気もします。 〇宇治郡名二野尾村(三宝院・醍醐寺領/宇治市二尾)と滋賀郡外畑村(膳所領/大津市石山外畑町)を結ぶ になこ川 牛馬通 なし 二尾の府県境に近い場所に蜷子(になご)谷の字が見えます。今昔マップから 1/20,000 宇治 明治42年測図 明治45.5. 30で見た瀬田川沿いの往還となりそうです。ここを牛馬が通れないのかと思いましたが、Googleストリートビューで見ると谷が深そうで す。なお、元禄の山城国絵図では二ノ尾村とされています。 〇同じく二野尾村と栗太郡曽束村(膳所領/大津市大石曽束町)を結ぶ 大川 山城国絵図では川中に大川と書かれていますので、山城側に書かれた大川は瀬田川のことを指していそうですが、近江国絵図では 大川が国境の小名としています。また、山城国絵図には「曽束舟渡」だが「不定」だと書かれています。今昔マップから 1/20,000 宇治 明治42年測図 明治45.5.30で見ると曾束渡の字が見えますので、このあたりで渡ったのかもしれません。 〇綴喜郡禅定寺村(禁裏御料/同郡宇治田原町大字禅定寺)と曽束村(前述)の境は 椎木谷堀切(山城国絵図)/立堀(近江国 絵図) 両国絵図に往還は見えません。今昔マップから 1/20,000 宇治 明治42年測図 明治45.5.30で見ると、いちおう川沿いに 小径は付いています。 平凡社日本歴史地名体系 滋賀県:大津市>南部地域>曾束村には「綴喜郡禅定寺村との間に近世まで山境争論が続いた」とされて います。一方で、角川日本地名大辞典 京都府 宇治田原町 禅定寺村(近世)には「近江小田原村(膳所領/大津市大石小田原町) の間で戦国期以来、山林の境界争いが繰り返され」となっており、瀬田川と大福川の間の山林区間は線引きに苦労があったようです。 〇綴喜郡岩本村(禁裏御料/同郡宇治田原町大字岩山)と小田原村(前述)を結ぶ 小坂本(山城国絵図)/梅木だに(近江国絵 図) 山城国絵図には「近江国にては梅木ヶたにと申しそうろう」となっていますので、読みは「うめきがだに」なのでしょう。今昔マップから 1/20,000 郷之口 明治41年測図 明治45.1.30発行で見ますと、旧禅定寺峠越が見えます。平凡社日本歴史地名体系 京 都府:綴喜郡>宇治田原町>岩本村には「北東行して禅定寺村を経て近江瀬田に向かう田原道」が書かれており、これが郷之口 明治 41年測図に載っている禅定寺峠越だと思われます。 しかし、両国絵図に書かれる小坂本・梅木谷は、禅定寺村の中心部を通らないように描かれています。禅定寺小字小坂本がこのあ たりにありますので、郷之口 明治41年測図で見たこのようなルートで禅定寺峠を越えていったのかもしれません。 〇のぞき岩 小坂本/梅木谷と大福川の間にのぞき岩が見えます。こののぞき岩は検索してもまったく該当がありません。天保の近 江国絵図及び元禄の山城国絵図には2つの岩が重なるような絵が描かれています。特に天保の近江国絵図では大きな岩に薄い岩が 寄りかかるように描かれているように見え、この岩のすき間から相手国がのぞき見えたのではないかと想像します。 ちょうど今昔マップ 1/20,000 宇治 明治42年測図 明治45.5.30で見た際になってしまいますが、このあたりに今ものぞき 岩がひっそりとあるはずです。 〇山城谷嶋瀧川 天保の山城国絵図にのみ記載されています。大福川のことでしょうが、こちらも検索にはなにも引っかかりません。 〇笹ヶたに 綴喜郡山田村の内 宮村(禁裏御料/宇治田原町奥山田政所等)と近江国栗太郡の甲賀郡境ぎりぎりのところに見え ます。 角川日本地名大辞典 京都府 宇治田原町 奥山田村(近世)には「枝村の宮には天神社がある」とされています。地理院地図で見 るこのあたりになりそうですがなにも情報はありません。 〇綴喜郡山田村(禁裏御料/宇治田原町奥山田)と甲賀郡野尻村(旗本内藤氏知行地/甲賀市信楽町宮尻)を結ぶ 裏白峠(山 城国絵図)/裏白(近江国絵図) 地理院地図で見た国道307号線旧道裏白峠。神君伊賀越えのルートと言われています。 〇相楽郡湯船村の内 上野村(湯船村として禁裏新御料/同郡和束町湯船)と甲賀郡上朝宮村(旗本横田氏知行地/甲賀市信楽 町上朝宮)を結ぶ 桃峠(天保の山城国絵図・天保の近江国絵図)/癈サ(元禄の山城国絵図・元禄の近江国絵図) 天保の近江国絵図では椎峠とも読めそうですが、両国の絵図に「相手国にても同名」とされることから桃峠としました。なお、平凡社 日本歴史地名体系の京都府:相楽郡>和束町>湯船村には「朝宮へは柞(ほそ)峠を越える」とされています。 上野村の所在がわかりません。角川日本地名大辞典 京都府 和束町 湯船村(近世)には「五ノ瀬、中、小杉の3集落」と書かれて おり、五の瀬は小字として残っています(国絵図の言う湯船村でしょうか)。山城国絵図では、綴喜郡裏白峠の西から和束川に注ぐ川 が描かれており、これは国道283号線に沿う谷山川だと思われます。谷山川の東、かつ和束川の北側に西から射場村・上野村と並ん でおり、上野村は信楽街道(地名体系 湯船村/現府道5号線とほぼ同ルートか?)沿いにあるとされていますので、椎原川沿いに伝 っていく地理院地で見たこのあたりでつながるのでしょうか。道が大変なことになっているようですが、これは茶畑の通路です。 なお、両国絵図とも上朝宮村ではなく、「朝宮村と湯船村」がつながるとされています。元禄の近江国絵図では上・下朝宮村にそれぞ れ「古者朝宮村と申しそうろう」と書かれていますので、たぶん慶長の国絵図からこの「朝宮村より(朝宮村まで)」の部分はUPDATEさ れていないのでしょう。 〇山城・近江・伊賀三国境の 志ろはげ峠(元禄の山城国絵図、天保の山城国絵図では記載なし)/信楽山 ありき谷峯(近江国絵 図)/白兀(はげ)峠(伊賀国絵図) 今昔マップから 1/50,000 上野町 明治25年測図 明治33.12.25発行で見た3国(府県)境。伊賀国絵図では「近江国に ては信楽山の内ありき谷の峯ととなえ」とされています。 |
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山城・近江・伊賀三国境の 志ろはげ峠(元禄の山城国絵図、天保の山城国絵図では記載なし)/信楽山 ありき谷峯(近江国絵 図)/白兀(はげ)峠(伊賀国絵図)から続けます。 「このところより三辻道までの間、山道限り、印の塚が国境」(山城国絵図/伊賀国絵図にも同様のことが書かれる、以下同)とされ ており、尾根境の何ヶ所かに塚が築かれていたようです。 〇白はげ(伊賀国絵図) 伊賀国絵図には白兀峠とは別に白はげの記載があります。 〇ゆるき岩 〇立がいと 白はげ・ゆるき岩・立がいとは情報がありません。 〇上奥田(伊賀国絵図) 伊賀上奥田は三辻の北です。下記の山城奥田は三辻の南になります。両上奥田・両奥田だったのではないかと想像しますが、資料 はなく確証はありません。 〇相楽郡北大河原村(大和柳生領/同郡南山城村大字北大河原)と阿拝郡嶋原村の内 奥村(津領/伊賀市島ヶ原奥村)とを結ぶ 三辻 「このところ三辻道限り、印の塚が国境」(以下も各ポイントごとに国境塚について言及があります) 1/50,000 上野町 明治25年測図 明治33.12.25発行で見た三辻。なお、現在は若干南に道筋を変えているようです。 平凡社日本歴史地名体系 三重県:阿山郡>島ヶ原村では、「和銅4(711)年に開かれた、山城国岡田駅(諸説あるが、いずれも平 城京から北上してきた現木津川市あたりとされる)と伊賀国新家駅(上野市東高倉あたりに比定)を結ぶ(古代)東海道が、大河原村押 原より島ヶ原村の北部山間丘陵のすそ地を、奥村・大道・中屋(中矢/いずれも島ヶ原の枝村)を経て西山(伊賀市西山)を結ぶ」とな っており、この三辻道が該当しそうです。なお、「大道(おおどう)」は(古代)東海道名残りの地名であるとされています。 三辻というのは北大河原−奥村をつなぐ往還の他に、伊賀国絵図で見ると山城・伊賀国境を尾根伝いに近江との三国境の「白兀 (はげ)峠」(伊賀国絵図)に向かう道もあるからなのでしょう。この国境の尾根道は元禄の山城国絵図にも掲載がありますが、天保の 山城国絵図には載っていません。 〇奥田(山城国絵図) 1/50,000 上野町 明治25年測図 明治33.12.25発行で見た奥田。 〇相楽郡北大河原村の内 今山村(北大河原村として大和柳生領/同郡南山城村大字北大河原今山)と阿拝郡嶋原村の内 奥村 (島ヶ原村として津領/伊賀市島ヶ原奥村)を結ぶ せこ(山城国絵図)/座頭の(?)かけ せこの馬(高・鳥?)場の間(伊賀国絵図) 両国絵図に「此所平場印之分木国境、伊賀国にては座頭の(?)かけと申しそうろう(山城国にてはせこと唱え)」とされていますので、 大和街道/伊賀(越)街道上の国境の小名と判断しています。 (?)を付けた字は達筆すぎて読めておらず、いちおう充てただけです。一般的に天保の国絵図よりも元禄の国絵図の方が文字の崩 しが少なくて読みやすいのですが、伊賀国絵図の元禄は高精度版の公開がありません。 印の分木(二本杭)については別途書く予定です。 山神尾(天保の山城国絵図)/山ノ神尾通(伊賀国絵図)・元禄の山城国絵図では山ノ神尾通り 伊賀国絵図には「座頭の(?)かけ道より(まで)」と表記があり、大和街道/伊賀(越)街道を座頭の(?)かけ道としています。また、伊 賀国絵図では山ノ神尾通は往還に沿って書かれていますが、山城国絵図の山神尾は大和街道/伊賀(越)街道と大川(木津川)の間 ほどに書かれています。 これらから山神尾は大和街道/伊賀(越)街道ではなく、別の間道ではないかと検討してみましたが、手掛かりはありません。 〇かさぎはら 笠置山・笠置寺(相楽郡笠置町)との関連を検討しましたが、少し離れています。大川(木津川)河原の小名なのでしょうが詳しいこと はわかりません。平凡社日本歴史地名体系 三重県:阿拝郡>島ヶ原村には「標高100mで伊賀では最低所」とされており、伊賀中の 水だけではなく木材や米が島ヶ原に集まり、木津川を使って京・大阪へ運ばれたのでしょう。 角川日本地名大辞典 京都府 南山城村 北大河原村(近世)には「木津川舟運の基点であり、木材は大河原浜でいかだに組みな おされた」とされています。 〇相楽郡田山村(柳生領/同郡南山城村大字田山)と阿拝郡嶋原村の内河南村(島ケ原村として津領/伊賀市島ケ原川南)を結ぶ はい坂(山城国絵図)/大崩(伊賀国絵図) 「このところ印の堀切貮ヶ所国境」と塚ではなく溝が国境とされています。1/50,000 上野町 明治25年測図 明治33.12.25 発行で見ると上(北)の道が顕著ですが、現在は下(南)の道がよく残っています。この往還はゴルフ場で分断されているようです。 すぐに山城・伊賀・大和の三国境に至りますが、特に小名等は記されていません。 |
山城・伊賀・大和の三国境から続けます。 〇相楽郡田山村(柳生領/南山城村大字田山)と添上郡石打村(郡山領/奈良市月ヶ瀬石打)を結ぶ 矢川越(山城国絵図)/つ かれ川越(大和国絵図) 「このところ谷間の平場堀切国境」。、1/50,000 上野町 明治25年測図 明治33.12.25発行で見たこの道になり、Googleス トリートビューで見たこの川が国境の堀切である矢川/つかれ川となりますでしょうか。両国絵図ともに大和側小名が達筆で読みに自 信がなかったのですが、京都大学貴重資料データアーカイブ 嘉永増補版改正大和国細見之図に「ツカレ越」とされています。 〇田山村(前述)と添上郡長引村(郡山領/奈良市月ヶ瀬長引)を結ぶ 田山越 鑓場 1/50,000 上野町 明治25年測図 明治33.12.25発行で見ると、現在の府道・県道753号線が該当しますが、槍場と呼ば れるほどの難所ではありませんので、槍は切り立った険しい道というわけではなさそうです。話はずれますが、角川日本地名大辞典 奈良県月ヶ瀬村の各村(近世)には特産品に茶とともに「烏梅」と月ヶ瀬梅渓らしい記載があります。 〇相楽郡高尾村(柳生領/同郡南山城村大字高尾)と添上郡桃香野村(郡山領/奈良市月ヶ瀬桃香野)を結ぶ うる(?)しの渕 高 尾越 「る」とした文字は正直読めていません。漢字の「塚」かとも思ったのですが、意味が通りません。渕はダム域に沈んだのかと思いまし たが、1/50,000 上野町 明治25年測図 明治33.12.25発行で見ますと、明治25年当時の道筋は現在の府道・県道82号 線とほぼ変わらないようです。 〇高尾村(前述)と添上郡邑地(おおじ)村(郡山領/奈良市邑地町)を結ぶ 小魂石越 少しの間、今昔マップのエリア外になりますので、地理院地図をリンクします。この道となりそうですが、谷伝い道ですので往時とほぼ 同じであろうと思います。 〇相楽郡法花平尾村(柳生領/同郡南山城村大字高尾)からの往還が二手に分かれ、東の往還は邑地村(前述)とを結ぶ 東法花 平尾越 あか水 天保の大和国絵図では阿か水越 元禄の山城国絵図には「ハウガヒラヲ」とルビが打ってありますので「ほうが」と読むようです。法花平尾は明治9年に高尾村に合併し たとされており、現在大字高尾の小字としては残っていませんが、地理院地図には地域名として法ヶ平尾の記載があります。 法ヶ平尾と邑地を結ぶのはこの道が該当しそうです。 〇法花平尾村(前述)からの往還が二手に分かれ、西の往還は添上郡奥ヶ原村(郡山領/奈良市興〈おく〉ヶ原町・奥と興はどちらも 使われていたようです)を結ぶ 西法花平尾越 舟のひらを(尾) 法ヶ平尾と興ヶ原を結ぶのはこちらの道が該当しそうです。 〇相楽郡南大河原村(柳生領/同郡南山城村大字南大河原)と奥ヶ原村(前述)を結ぶ 志んかい峠(山城国絵図)/志んかい峠越 (大和国絵図) 元禄の山城国絵図で見ると、山城国内で結構な山越え道とされているようです。南大河原と興ヶ原を結ぶのはこの道になりますでし ょうか。 〇相楽郡飛鳥路村(柳生領/同郡笠置町大字飛鳥路)と添上郡柳生村枝郷下村(芳徳寺領・旧高旧領では柳生領芳徳寺除地/奈 良市柳生下町)を結ぶ 飛鳥路越 大澤(沢) 飛鳥路村から布目川を渡り、古城(笠置城)の東から柳生下村に至るのは、現在はゴルフ場に分断されていますがこの道が該当しそ うです。大和柳生領初代 柳生宗矩の諸子で仏門に入っていた烈堂が、柳生家菩提寺である芳徳寺の住持になります。宗矩の死後に 柳生領は分割相続され、柳生村の一部200石が烈堂領となり柳生下村として分村します。さらに柳生下村が芳徳寺に寄進されます が、実態として柳生領ですので国境ですが領境ではありません。 相楽郡南笠置村(津領/同郡笠置町南笠置)と下村(前述)を結ぶ 笠置越 西あ(阿)さい 府道・県道4号線。打滝川右岸を登って来て、途中で川を渡り左岸から下村へ至る道筋は今も変わりません。いちおう西あさいと読 んでいますが、元禄の大和国絵図 下須川村の内城戸村の欄外には「この川除き山より西阿〇ひまで」となっています。 〇狹川谷川 狭は木へんとけものへんが混在して使われているようです。現在の白砂川のことでしょうが、上流に上・下狭川(さがわ) 村(津領/奈良市狭川両町・下狭川町)があることからその名で呼ばれていたのでしょう。 〇相楽郡南笠置村の内 西奥村(南笠置村として津領/同郡笠置町南笠置西奥)と添上郡廣岡村(郡山領/奈良市広岡町)をつな ぐ 廣岡越 西奥村の北から早めに川を渡って大和(広岡)に渡っていますので、地理院地図で見たここになりますでしょうか。 〇相楽郡高田村(津領/木津川市加茂町高田)と添上郡中ノ河村(能楽者金春氏・大蔵氏領知/奈良市中ノ川町)を結ぶ 中ノ川越 長尾口(山城国絵図)/中ノ川越 不動石(大和国絵図) 今昔マップから 1/20,000 奈良 明治41年測図 明治45.5.30発行で見ても顕著な往還は見えません。両国絵図では浄瑠 璃寺の西を過ぎ、国境線上の道を西に向かい、中ノ川の西に降りるとされています。また山城国絵図では長尾口の西は山城が凸にな っていると描かれています。奈良 明治41年測図で見たこのあたりが該当するのではないかと考えてみました。山城側は長尾口の小 名ですが、加茂町西小(相楽郡西小村/伊勢久居領)長尾の小字がここにありますので、国境の相対村は西小村となるようです。 〇相楽郡梅谷村(公料幕末は京都守護職役知/木津川市梅谷)と添上郡奈良坂村(公料/奈良市奈良坂町)を結ぶ 奈良越 平 野(山城国絵図)/奈良越 惣山ヶ平(大和国絵図) 梅谷と奈良坂をつないでいますので奈良坂街道ではなく、今昔マップから 1/20,000 奈良 明治41年測図 明治45.5.30発 行で見たこちらの道になりそうです。道筋が大きく変わっていますが、後継道路は府道・県道4号線となるでしょうか。往還に沿って線路 が並走していて戸惑いましたが、奈良駅と賀茂駅の間に関西鉄道大仏線(明治31〜40年)と言われる路線が走っていたようですか ら、正確には明治41年測図の時点では廃線になっていたはずです。 山城国絵図で見るとこの往還は、奈良坂村から前述の中ノ川越ともつながっています。今昔マップから 1/20,000 奈良 明治4 1年測図 明治45.5.30発行で見ると、確かにつながっています。 〇相楽郡市坂村(旧高・旧領では元御除領・旗本三輪氏相給/木津川市市坂)と奈良坂村(前述)を結ぶ 奈良坂越 高座 こちらが奈良街道となります。府道・県道784号線。今昔マップから 1/20,000 奈良 明治41年測図 明治45.5.30発行で 見た該当地点。 〇相楽郡大路村(公料/木津川市木津)と添下郡哥姫村(郡山領/奈良市歌姫町)を結ぶ 歌姫越 鳥羽谷(天保の山城国絵図) /木津海道 大崎(大和国絵図) 元禄の山城国絵図では大和国絵図と同じく木津海道で鳥羽谷とされています。木津町(大路)から歌姫の南につながるのはこちらの 道になりそうです。後継道が国道24号線でしょうか。 〇相楽郡吐師(はぜ)村(大部分が禁裏御料でその他相給/木津川市吐師)と哥姫村(前述)を結ぶ 郡山海道 中溝(山城国絵図) /京街道 けしてん(大和国絵図) 今昔マップから 1/20,000 奈良 明治41年測図 明治45.5.30発行で見た郡山街道(現在は府道・県道761号線)となるで しょう。現在も木津川市相楽(さがなか)町の府県境に中溝の字があります。よって、吐師と歌姫をつないでいますが、国境の相対村は 相楽郡相楽村(禁裏増御料・旗本4氏他相給/木津市相楽)となるようです。 〇北川 大和国絵図では北川越の他に北川の掲載があります。この北川は次の北川越で一緒に考えていきます。 〇相楽郡山田村(禁裏増御料・旗本大岡氏知行地/同郡精華町山田)と添下郡高山村の内 中村(高山村として旗本堀田氏・森氏 相給※/生駒市高山町)を結ぶ 北川越 ※相給としていますが、高山村を東西に分け、東方は堀田氏・西方が森氏となる坪分けだったようです。それぞれの地点においてど ちらかの知行地になるようですが、東西がどこで分かれるかまでは調べきれませんでした。 そもそも国立公文書館が公開する天保の大和国絵図はピンボケしていて、村名くらいまでは判別できますが、それ以上の細かな文 字がよく読めません。一方で、元禄の大和国絵図を見るとこの村は高山村の内 中山村とされています(ただし、欄外に「中村より山城 国山田村まで」とも書かれている)。添下郡には中村(郡山領/奈良市中町等)と中山村(郡山領/奈良市中山町等)がありますが、大 和国絵図では中村は霊山寺の東に・中山村は秋篠宮の北にそれぞれ描かれていますので、山城国山田村とつながる中村はこれらと は別の村になります。 大和国絵図で見ますと、高山村は富雄川の西に・枝村の中(山)村は川の東に描かれています。角川日本地名大辞典 奈良県 生 駒市高山村(近世)には、「高山村に属する一番大きな集落は前田で、その他に大門村・久保村・中村・大北村・芝村・庄田村・傍示村」 があるとされています。 今昔マップから 1/20,000 高山 明治41年測図 明治45.5.30発行で見ると、高山に中村の字が見えます(同地図時点で は生駒郡北倭町高山)。同地図で見ると中村から国境に至る往還がありますので、この往還の国境部が北川越になるはずです。両国 絵図では北川越から先は川中央が国境とされており、川に沿って道があるとされていますので、このルートをたどることになります。 山城国絵図に書かれる「このところより北川越まで川中央国境」の「このところ(此所)」はこの地点(現在の両国橋)を指すことにな り、ここより東側では川と国境(府県境)が離れ山田川は山城国内を流れていきます。 よって、北川は山田川水系のこの川を指しています。調べましたが現在の河川名はわかりません。 鹿畑村(旗本堀田氏知行地/生駒市鹿畑)と相楽郡柘榴村(禁裏増御料・旗本野々山氏他/同郡精華町柘榴)を山田川沿いにつな ぐ、現在の国道163号線ルートはなかったのか、両国絵図には描かれていません。 〇横峯 両国絵図に記載があります。山城国絵図は郡境に近い場所、かつ綴喜郡打田村(淀領/京田辺市打田各町)域と思しき場 所に書かれています。嶽山を考えたのですが、同山は山頂が相楽郡と綴喜郡の境になり、山城国絵図に書かれるよりももっと郡境か つ山城国内の山になります。 両国絵図に「このところ峯通り国境、相手国にても同名」とされていることから国境の山ではないかと考えますが、千鉾山では郡境か ら離れすぎており、もし同山ならば綴喜郡高船村(淀領/京田辺市高船各村)域に描かれそうです。その間に国境(府県境)上のピー クはこれくらいしか見当たりません。 〇綴喜郡天王村(旗本小倉氏・淀領・禁裏増御料他/京田辺市天王各村)と高山村の内 平尾村(高山村として旗本堀田氏・森氏相 給※/生駒市高山町)を結ぶ 西ヶ峯(山城国絵図)/成尾峯(大和国絵図) 天保の大和国絵図には高山村の枝村として中村・蒔田村・平尾村・傍示村が描かれています。一方、前述のとおり角川日本地名大 辞典には高山村の枝村は、大門村・久保村・中村・大北村・芝村・庄田村・傍示村の7村とされています。この7村は今昔マップから 1 /20,000 西大寺 明治41年測図 明治45.3.30発行で全ての村(地図当時は字と思われる)を確認できます。驚くほど広いで すが、一番南の字「芝」の地点も現在の高山町域です(西大寺 明治41年測図には、高山町域にもっと多くの字が見え、いくつかは近 世以前からの地名とされていますが、触れるときりがありません)。 中村と傍示村は大和国絵図と地名辞典の記述が合いますが、絵図に描かれる蒔田村と平尾村は地名辞典や明治の地図にはあり ませんから、発展していく中で村名が変わってしまったのでしょう。平尾村については検索してもなにも成果がありません。絵図と地図 をにらみ続けたのですが、現在の情報だけで何かを決めつけることは出来ません。 天保の大和国絵図の成尾峠は、平尾村の東からの道が傍示村を経ずに三国境に向かっており、いったん河内国を経るように描か れています。最終的には今昔マップから 1/20,000 西大寺 明治41年測図で見たこの峠が西ヶ峰/成尾峯となるのではないか と考えています。 よって、山城・大和・河内三国境の小名は、西ヶ峯(山城国絵図)/成尾峯(大和国絵図)となりそうです(河内国絵図では言及なし)。 |
山城・河内・大和の三国境から進めていきます。 〇槍山(山城国絵図)/辨財天山(河内国絵図) 綴喜郡水取村(禁裏御料/京田辺市水取各町)と交野郡穂谷村(旗本永井氏〈直 令系〉知行地/枚方市穂谷)の間に書かれています。高ヶ峰ならば普賢寺天王(朱智神社)の北の峰に描かれたでしょうが、山城国絵 図ではその峰から1ピーク離れていると書かれています。 今昔マップから 1/20,000 高山町 明治41年測図 明治45.5.30発行で見た、一番北のマークが槍峠になりますが、高ヶ 峰と槍峠の間には、顕著なピークはこの標高263mしか見当たりません。槍山・弁財天山とも現在の検索には引っかかりません。 なお、徳島大学付属図書館 貴重資料高精細デジタルアーカイブから 森幸安の山城州大絵図(安永7〈1778〉年/以下、森幸安 山城州大絵図)で見ますと、普賢寺と天王社が(たぶん同一敷地内に)並んで建っているように描かれています。ついでですので、同絵 図には綴喜郡高船村(淀領/京田辺市高船各村)から尊延寺(後述)への往還があるとされており、たぶん高山町 明治41年測図で 見る、大和国との国境を伝うこの往還になるのでしょう。 〇綴喜郡上村(禁裏増御料・淀領他/京田辺市普賢寺各町)と交野郡尊延寺村(旗本永井氏〈尚令系〉知行地/枚方市尊延寺)を むすぶ 槍峠 山城国絵図ではこの往還は綴喜郡水取村(前述)と上村の間から延びています。現在は両府道71号線がメインの通りですが、府道 71号線は水取の町中から延びているといえます(南〈下〉のマーク)。北(上)のマークから延びる道の方が上村と水取の間から延びる と言えるかもしれません。いずれから出たとしても槍峠の場所は変わりません。 〇綴喜郡興戸村(※)と交野郡尊延寺村(前述)をむずぶ 興戸越 ※2両国絵図には「興戸村より(まで)」と書かれていますが、山城国絵図では南北興戸村に分かれて記されています。平凡社日本歴 史地名体系 京都府:綴喜郡>田辺町>興戸村には「防賀(ぼうが)川を境に南北」とされています。今昔マップから 1/20,000 高 山町 明治41年測図 明治45.5.30発行で見ると、興戸越は北興戸から延びていると判断します。北興戸村は淀領・旗本高木氏・ 野々山氏知行地で、京田辺市興戸の防賀川より北の各町。 河内国絵図では興戸越と槍峠は河内国内で一つとなり尊延寺村へ至るとされています。高山町 明治41年測図で見たこの往還とな るでしょう。 山城国絵図には甘南備山がありませんが、森幸安山城州大絵図には神南備山として掲載されています。 〇綴喜郡内里村(幕末は京都守護職役知・公家5家他/八幡市内里各町)と交野郡津田村枝村 長尾村(旗本久貝氏知行地/枚 方市長尾各町)をむすぶ 荒坂越 今昔マップから 1/20,000 田邊 明治41年測図 明治45.5.30発行で見たこの往還になりそうです。荒坂の字は、八幡市 美濃山荒坂・枚方市長尾荒阪と両国ともに残っています。 〇綴喜郡八幡(石清水八幡宮領/八幡市八幡各町)と長尾村(前述)をむすぶ 志水越(山城国絵図)/清水越(河内国絵図) 〇同じく綴喜郡八幡と交野郡招堤村(幕末は京都守護職役知/枚方市招堤各町)をむすぶ 洞ヶ峠越 内四郷と外四郷を合わせて八幡とされることが多いようですが、山城国絵図には外四郷(美豆村・際豆村・生津村・川口村)及び下奈 良村はそれぞれ「八幡の内」として別記されていますので、山城国絵図がいう八幡は内四郷のみを指しています。 天保の山城国絵図ではちょうど継ぎ目になってしまいますので、元禄の山城国絵図で見た方がわかりやすいですが、八幡よりの往還 (東高野街道)が男塚と女塚の間を通るとされており、それぞれ立派な山が描かれています。明治41年当時の地図で見ると、東高野 街道は男塚の回りで現在の道筋とは若干違っており、男塚と女塚(女郎塚)の間を抜けていたといえるようです。とはいえ山はやり過ぎ ですが、国絵図は江戸で幕府のお抱え絵師が描き上げています。男塚・女塚のイメージがふくらみ過ぎたのでしょうか。 山崎の戦いの折、筒井順慶が日和見したことから「洞ヶ峠を決め込む」の語源ともなった洞ヶ峠ですが、鳥羽伏見の戦いのときは、 高槻領永井家の勢力が幕府方として洞ヶ峠に陣取っていますが、やはり交戦はなかったとされています。 今昔マップから 1/20,000 淀 明治41年測図 明治45.5.30発行で見た、東(右)の峠が志水越/清水越・西(左)の峠が 洞ヶ峠越(東高野街道)となります。 〇同じく綴喜郡八幡と交野郡船橋村(旗本永井氏〈直右〉系・永井氏〈尚申系〉知行地/枚方市船橋各町)をむすぶ 七ツ松越 この峠道も、八幡からの東高野街道から分岐しています。七ツ松越は今昔マップから 1/20,000 淀 明治41年測図 明治4 5.5.30発行で見たこの往還が該当しそうです。 〇東高野街道からからさらに分岐して交野郡楠葉村南組(旗本船越氏とされるが、旧高旧領では公料/枚方市南楠葉)とをむすぶ 往還が描かれていますが特に名は付されていません。 この往還は元禄の河内国絵図には描かれていますが、天保の河内国絵図では見えません。今昔マップから 1/20,000 淀 明 治41年測図 明治45.5.30発行で見たこの往還が該当しそうです。 〇八幡山(山城国絵図)/楠葉山(河内国絵図) 〇綴喜郡八幡の内 橋本町(石清水八幡領/八幡市橋本各町)と交野郡楠葉村の内 中芝村(楠葉村に同じ/枚方市楠葉中之芝) をむすぶ往還が描かれ、両国絵図とも川を境とすると描かれており、こか祢川(山城国絵図)/金川(河内国絵図) 京街道上の国境は今昔マップから 1/20,000 淀 明治41年測図 明治45.5.30発行で見たここになり、同地を流れる川の 現在の名は小金川です。 〇小金川が流れ込む淀川が山城・河内・摂津の三国境になります。 |
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山城国淀領主永井尚政は、明暦4(1658)年に致仕(隠居)して嫡男の尚征(なおゆき)に跡を譲りますが、この時に尚征の弟たちに も分与しており、三男 尚庸(なおつね)は河内国茨田(まった/まんだとも)・讃良(さらら)・若江郡に20,000石を分知され大名として 独立します。この家はその後は移封を繰り返していますが、美濃加納領(32,000石)として幕末までつながります。 四男 直右(なおすけ)は茨田・交野・若江郡に7,000石・五男 尚春の知行地は別記※1しますが3,280石・六男 尚申(なおの ぶ)は交野・茨田郡に3,000石をそれぞれ分知され旗本となります。この結果、10万石から新田開発で106,900石となっていた淀 領は73,600石となっています。 五男 尚春の家系は、3代目尚広が不行跡及び不法券書(証文・証書)による借金の科で寛保2(1742)年12月に改易(江戸幕府 法における改易について〈リンク先はPDF〉)、尚春はさらに次男尚芳にも分知していたのですが、この分家も元禄7(1694/元禄4説 あり)年に2代目伝五郎(尚栄)の代で無嗣改易となっています。 本家の尚征は寛文9(1669)年に丹後宮津へ移封(その後のなりゆきは本編と関係がないので省略)しますが、四男 直右系と六男 尚申系は幕末まで河内の地で代を重ねます。六男 尚申系は尚申の子直充(なおちか)の代にさらに分知があり、直充の五男 直令 (なおよし)が1,000石で旗本となり、直令系も幕末までつないでいます。 なお、尚政次男の尚保は、尚政領主時代にすでに小姓となっていますが、その後に病で職を辞しており、尚政致仕の際には存命で すがすでに隠居していますので、この分知には名が出てきません。 以下、わかる範囲で淀領分家永井氏それぞれの知行地を調べてみました。一部推測もあり完全版ではありません。
旧高旧領取扱帳データベースでは、直右系知行地は左門・篤之助・伊予守と3つの名が出てきます。永井左門が幕末時の直右系当
主ですが、この方は明治2年に亡くなられています。 大阪商業大学商業史研究所資料目録(平成6年 第二集)に河内国茨田郡藤田村文書目録(PDF)があり、この目録だけで1日読み
ふけることができるくらいの濃い内容ですが、この中のP10(16枚目)、明治2年9月の「高反別毛附書上帳」では「永井左門領地 河 州茨田郡藤田(とうだ)村」となっています。実際には左門は前月の8月に没しているようですが、そこは現代とは違いますので情報が スムーズに届かなかなかったのでしょう。一方、P3(9枚目)明治3年4月の「御林並木御取ニ付書上書」では「元永井篤之助領地 河 州茨田郡藤田村」 となっています。 このことから、実子・養子までは調べきれませんでしたが、左門の跡を継いで藤田村を知行したのが篤之助であることがわかります。
新政府が旗本の知行地をすべて上知したのは明治2年12月のことですから、篤之助が知行したのはほんの数ヶ月のことで、明治3年 時点ではすでに「元領主」とされています。 また交野郡野村だけが伊予守名義になっています。左門が伊予守を名乗った形跡は確認できませんが、祖の直右が伊予守を名乗
っています。直右以降は伊予守を名乗った人は見当たらず、何代かが大和守を名乗っています。いちおう、分知があっていた可能性も 検討しましたが、左門までに分家が建った形跡はなく、しかも1ヶ村186石の知行で「伊予守」を受領したとも思えず、旧高旧領取扱帳 作成時に参考とした資料が古かったのではないかと推測します。 また尚申系知行地も大之丞・録之助・甲斐守の3つの名で記録されています。こちらは録之助が本名で通称が大之丞の同一人物で
す(ただし、先代も大之丞直常なので、先代の名で記載された可能性もあり)。大之丞の官職名も見つけられませんが、甲斐守は同じく 祖の尚申が名乗っています。こちらも甲斐守名義は1ヶ村282石のみですので、直右系と同じ理由で分家ではないと考えています。尚 申系とした勒負は後述します。 この家系には「直」と「尚」が混在していて、さらには初代が「尚」なのに2代目以降は「直」を使っていたりしてややこしくて、気をつけた
つもりですが間違いがあるかもしれません。 以下、(角)角川日本地名大辞典・(平)平凡社日本歴史地名体系のそれぞれ記述内容。明暦4年と万治元年は同じ1658年(出典
を何度か入れ替えた結果「万治元年」は現在使っていませんが、この記述は残しておきます)。 〇四男 直右系(7,000石)
※2茨田郡梶村・三ツ井村のように、直品が養子になったことによりのちに直右系知行地に加わった村もありますが、逆に同郡打越
村(門真市)は、明暦4年の分知時に直右知行地となったが後に公料になったとされており、多少の付け替えがあっています。 〇六男 尚申系(2,000石)
〇六男 尚申系分家 直令系(1,000石)
※3旧高旧領取扱帳データベースでは、交野郡郡村(寝屋川市)は永井真之丞と永井勒負(仮に「ろくふ」と読んでいます)の相給とな っています。この永井勒負という人は一切情報を見つけられませんが、よく似た文字で靱負(ゆきえ)ならば心当たりがあります。 靫負/靱負(ゆげい)は古代官職で、例えば平田靱負(ゆきえ/島津家家老)・浦靱負(同/毛利家国家老)なども通称名として使っ ています。旧高旧領取扱帳(もしくは同データベース)を作成の際に、達筆すぎて靱負を勒負と誤読してしまったのではないかと推測し ます。 旗本家百科辞典には「永井靱負直尭(なおたか) 1,000石→真之丞直秀→真之丞直寿」で記載があり、尚申系分家の直令系真 之丞直寿の先々代尚尭が靱負を名乗っています。しかし、そうしますと郡村は、真之丞と(靱負尚尭の後裔の)真之丞との相給というお かしなことになってしまいますし、1,000石のはずの直令系知行地が1,500石を超えてしまいます。 平凡社日本歴史地名体系 大阪府:寝屋川市>郡村では「尚申→直充から享保2(1717)に直丘(なおたけ)362石と直令203石に 分知」となっています。また、寛文5(1665)年に郡村から分村した郡北村は「尚申→直充で128石」とされていますが、郡北村は明治 初年に郡村に合併したとされており、旧高旧領作成時点で存在しておらず、旧高旧領取扱帳DBには掲載がありません。 よって、旧高旧領が言う勒負(靱負)分郡村492石は「郡村の直丘分(本郷 南町)とされる362石と尚充(→直丘)の郡北村128石 を合わせた490石(から石直し)」だと思われます。 旗本家百科事典や江戸幕府旗本人名辞典(以降、旗本人名辞典/同じく小川恭一)では尚申系の人が「靱負」を名乗った形跡は確 認できませんが、地名体系の記述等から郡北村及び郡村の本郷南町は、尚申系直充→直丘→中略→大之丞の知行地で、永井勒負 (靱負)は尚申系としました。 なお、角川日本地名大辞典 大阪府 寝屋川市 郡村(近世)には「明暦4年旗本永井氏知行・享保4(1719)年からは旗本永井2 氏の相給」とされており、「尚冬知行地346石余は本郷 南町・尚春知行地193石余は中村」となっています。尚申が尚冬と名乗った 痕跡もあり、尚冬・尚春にだまされそうになります。明暦4年の分知時に郡村は六男 尚申(尚冬)と五男 尚春に分けられたのかと検 討しましたが、この尚冬・尚春は情報に混乱があり、直丘・直令を指していると判断しました。 今昔マップで見ればなにかわかるのではないかと思い、1/20,000 星田 明治41年測図 明治44.10.30発行を見ました が、明治初年に合併したとされる郡村と郡北村は、明治41年当時は町が一体となっています。 地名体系 郡村では「西覚寺は中村・八幡大神社(明治43年友呂岐神社)は南町」となっています。南町と中村の言葉のイメージか ら南北(上下)かと思っていましたが、南町の八幡大神社(明治41年当時/東〈右〉のマーク)と中村の西覚寺(西〈左〉のマーク)の位 置関係を見ますと、南北よりも東(本郷 南町)西(中村)に近いのかもしれません(河内街道に対して中?)。 天保の河内国絵図で見ると、三井村と田井村の間を北上してきた河内街道は、郡村の村中には入らずにその西側を通り、郡北村の 村中を抜けるとされていますが、明治41年当時はそのままの姿で河内街道が大字郡の西側を通っています。河内街道と大字郡が交 わるあたり(北〈上〉のマーク)が郡北村になるかと思いますが、地名体系 郡村には「郡北村との村境は互いに入り組む」とされていま す。 ※4尊延寺村は旧高旧領取扱帳データベースでは「永井大之丞(尚申系)」とされていますが、平凡社日本歴史地名体系 大阪府 枚 方市>尊延寺村では「尚申→1717年直令」となっています。それぞれの合計石高や諸情報を検討した結果、尊延寺村は直令系真之 丞知行地としました。 〇不明
角川日本地名大辞典 寝屋川市 打上村(近世)には「淀領と大坂町奉行役知の相給から貞享4(1687)年に淀領分は公料となり、
その後、元禄7(1694)年時点では旗本永井氏(47石)と相模小田原領(310石)の相給、ただし天明7(1787)年時点で永井氏分 は40石」とされています。 寝屋川市史第10巻 「市域村々の所領変遷」(P528 表16)では打上村は、正保郷帳(正保元〈1644〉年以降)では淀領永井家・
旗本永井氏(180石)の相給→元禄郷帳では小田原領大久保家・旗本永井氏(180石)の相給となっています。ところが同じ寝屋川市 史の近代 「維新直後の行政区画」(P709 表1)では小田原領311石・永井庄九郎48石となっています。 平凡社日本歴史地名体系 大阪府:寝屋川市>打上村では「尚政(淀領)→淀領307石・永井正成47石の相給→淀領分は小田原
領」となっています。 以上の情報を見る限り、打上村は小田原領(310石程度)と永井庄九郎(48石程度)の相給が正しいような気もします。小田原領は
摂津や河内にもまとまった領地を持っており、旧高旧領取扱帳データベースでは交野郡は13ヶ村が同領(大久保加賀守名義)とされ ていますが、上記の通り打上村は同DBでは全村が永井庄九郎名義とされています。 明治維新後すぐに、新政府に恭順しなかった旗本の知行地が上地されており、この際に各領地が整理され付け替えられ、打上村は
全村が永井庄九郎名義になったのかもしれません。 旗本百科事典で調べると、永井庄九郎は記載があり「安政(1855) 小性(小姓)組秋山組」とされていますが詳細は「不明」となって
おり、「永井勝左衛門につながるか?」とされています。さらに旗本人名辞典で永井勝左衛門を検索すると、「永井勝左衛門正孚(まさ ざね) 400石 本国近江 知行河内 旧高旧領不詳」となっています。 庄九郎と勝左衛門の関係は判然としませんが、河内に400石を知行する旗本永井氏は確かにいたようです。
二重の仮定になりますが、旧高旧領取扱帳に記載されるように打上村356石すべてが永井庄九郎の知行地であり、庄九郎と河内に
400石を知行するとされる勝左衛門がつながるとしても、打上村が知行地のほとんど(356/400)を占めることになりそうです。そし て尚政系は本国三河ですから、本国近江とされる勝左衛門とはあまり関係がなさそうです。 〇摂津高槻領
知された形跡があります。
尚春系は3代目の尚広が不行跡により寛保2(1742)年に改易とされていますが、2代目の直増(なおまさ)も2度ほど烏丸領永井家
(尚庸系)にお預けになっており、最後はお預けの身のまま没しています。それらの際に、領地替えのペナルティがあっていてもおかしく ありません。尚春系は幕末までつながっていないので、可能性がある村を一村ずつ調べるしか手だてがありませんが、3,280石のう ちの2,888石(旧高旧領による幕末時の石高)は河内国内で確認できます。 ※5平凡社 日本歴史地名体系 大阪府:大東市>氷野村では「延宝(1673〜1681)年間の河内国支配帳によれば822石で、尚
庸315石・尚春363石、143石は尚芳」とされるが、822石は赤井村を分村する前の石高と思われます。氷野村と赤井村は万治元 (明暦4/1658)年に分村したとされています。たぶん明暦4年の永井家の分知とともに、それぞれの知行地に合わせて分村して、赤 井村315石を尚庸・氷野村506石(後に尚芳に分知した134石を含む)を尚春が領知したのでしょう。その後に尚春が氷野村を子2 人に分知して、氷野村の内 363石を直増に、143石を尚芳に分けたと理解しています。 |
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山城・摂津・河内の三国境の淀川から山城・摂津国境を見ていきます。 〇乙訓郡大山崎と島上郡山崎村をむすぶ 西国街道 大山崎・山崎、及び西国街道については、西国街道の国境モニュメント及びコラム大山崎と山崎に書いています。 〇山崎山 両国絵図に山崎山(天王山)の記載があります。今昔マップから 1/20,000 山崎 明治42年測図 明治44.9.30発行で見 た山崎山(天王山)。 国境ではありませんが、摂津国絵図には谷観音と水無瀬瀧が描きこまれています。特に元禄の摂津国絵図に描かれる水無瀬瀧が とてもかわいい。この谷観音は山城国側となる龍谷観音のことではなく、椎尾神社(三島郡島本町山崎5丁目)のことのようです。1/2 0,000 山崎 明治42年測図で見た水無瀬の滝(西〈左〉のマーク)と椎尾神社(東〈右〉のマーク)。 一方山城国絵図には、乙訓郡浄土谷村(法皇御料/長岡京市浄土谷)の上に柳谷観音(楊谷寺/長岡京市浄土谷堂ノ谷)が描か れています。 〇島ヶ嵩(山城国絵図)/島ヶ嶽(摂津国絵図) 山城国絵図では柳谷観音と長坂尻の間に島ヶ嵩あることになっています。該当する のはこの標高399mのピークしかありませんが、現在の山の名はわかりません。 〇乙訓郡下海印寺村(伏見宮領/長岡京市下海印寺)と島上郡大澤村(高槻領/三島郡島本町大字大沢)をむすぶ 長坂尻 元禄の山城国絵図・天保の摂津国絵図で見ると長坂尻は国境線上を伝うように描かれています。下海印寺村と大沢を結ぶ峠は、 楊谷寺の北を通るこの道になるでしょうか。山城国絵図に描かれるように、この場所で山城側が凹んでおり、往還が国境に沿って続い ています。天保の山城国絵図にのみ長坂尻の記載はありません。 なお、森幸安山城州大絵図では下海印寺村から延びる道が、楊谷寺の下で二手に分かれ、一方は長坂越(大澤越ともされている) ですが、楊谷寺の南を伝い島上郡尺代村へつながる柳谷路が描かれており、「尺代村を経て西国宿道に出」るとされています。こちら は1/20,000 山崎 明治42年測図で見るこの往還となりそうです。 〇炭塚 炭塚に関しては正直よくわかりません。私が目にした資料だけではポンポン山との関連付けは出来ません。森幸安山城州 大絵図ではポンポン山は加茂瀬嶽とされています。 両国絵図には長坂尻から山城・摂津・丹波三国境までかなりの距離の間、両国をつなぐ往還は見えません。山深い地域とはいえ、さ すがに人は行き来しただろうといろんな絵図を見比べたところ、岡山大学池田家文庫から山城国細見大絵図(T1−118 安永7〈17 78〉年 洛下百芽・下河辺拾水)に、癇Jから「本山越摂州本山寺(高槻市原)に出」る道が描かれています。 角川日本地名大辞典 京都府 京都市 小塩村(近世)には「西方の杉谷も当村の内」とされています。現代地図から杉谷の字は追 えませんが、ポンポン山のかなり西まで大野原小塩町域となっています。本山越は1/20,000 山崎 明治42年測図で見たこの往 還になるのではないかと思います。 〇乙訓郡出灰村(藤谷家領/西京区大野原出灰町)と摂津国島上郡原村(美濃加納領/高槻市原)、さらには桑田郡出灰(いずり は)村の内下出灰村(亀山領/高槻市出灰)の3国境は、から滝ノ尾(山城国絵図)/から谷・国木ヶ鼻(摂津国絵図)/国木ヶ鼻(丹 波国絵図) 1/20,000 山崎 明治42年測図で見た3国境。 |
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