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国立公文書館デジタルアーカイブから天保の山城国絵図・同丹波国絵図を見ますと、山城国乙訓郡沓掛村(安楽光院領・公料・高野 家領/京都市西京区大江沓掛町)と丹波国桑田郡王子村之内 峠町(亀山領/亀岡市篠町王子)の間、大江坂峠(大江坂が訛って老 ノ坂になったとされる)に「このところ山の半腹国境定杭あり」(山城国絵図)・「このところ山の半腹国境杭あり(丹波国絵図)と国境杭 の記載があります。 国立京都博物館の庭に、老ノ坂峠の山城国境石とされるものの展示がありますが、老ノ坂の現地にも山城国境石が1基建っていま す。この両者の関係がわからなかったので、京都国博にお尋ねしたところ「かなり昔に個人から寄託されたものなので詳細はわからな いが、老ノ坂峠に2基建っていたうちの1基とされている」とお返事をいただきました。 はたしてそのようなことがあるのでしょうか。一つの国境往還に両国の国境石が各1基ずつ建っていたならば理解できます。江戸時 代の往還は山陰道とはいえ山道に過ぎず、道の両端に標識を建てなければ見落とすほどの広さではありません。そもそも山城側の沓 掛村は元禄のころから安楽光院と公料の相給で、享保期にはそこに高野家が加わっていますが、国境石を建てるべき立場の人がい ません。 幕府代官が建てる境標は木柱ですし、例えば淀領稲葉家などか関与したのならば、大江坂(老ノ坂)だけではなく他の山城国の主要 国境峠にも建てられたでしょう。沓掛村の村仕事だったならば、往還の両端に2基という国持大名でもやらないような念の入ったことを したのでしょうか。 国際日本文化研究センターが公開する拾遺都名所図会(著:秋里籬島・絵:竹原春朝斎/天明7<1787>年)巻之三に老の坂絵図 (同書では老の坂と「の」を使っています)が載っています。 この老の坂絵図の詳細は別項を建てたいと思いますが、この中に国分石(国境石)が描かれています。しかし絵図を見る限り、国分 石は1基のみであり、四角柱状に加工されているように見え、現京都国博・現老ノ坂の自然石をある程度加工しただけの国境石とは違 うものに見えます。しかも、台座の上もしくは枠石の中に座っているように描かれています。京都国博の老ノ坂峠にあったとされる国境 石は、本来地中となる荒加工部が露呈していますが、これはこのまま土に埋められる仕様であり、基礎台の上に建てられたり枠石に はめ込まれるものではありません。 ただし、この老の坂絵図が現地取材した結果の正確な描写とは限りません。 老の坂絵図から大江坂(老ノ坂)峠に国分石(国境石)が建っていたことは確かですが、形状・基数の違いから現在老ノ坂に、また京 都国博にある山城国境石の根拠にはなりえそうにありません。 老ノ坂に2基ではなく、1基は近隣の明智越もしくは唐櫃(からと)越ではないかとも考えましたが、山城国絵図には国境石の記述は 大江坂峠にしかありません。唐櫃越は都名所図会(著者・絵師は拾遺に同じ/安永9<1780>年) 巻之四に文字でのみ記述がありま すが「葉室の浄住寺地蔵院の間より、丹波の王子村へ出る間道なり。峠に大木の松数株あり(以下略)。」とされており、もし国境石が 建っていたならば、松と共に国境石にもに言及があったでしょう(今昔マップから1/20,000 大野原 明治42年測図 大正1年9月 30日発行で見た唐櫃越)。 ためしに京都国博と老ノ坂の文字を比べてみます。 ![]() 並べると文字はそっくりですが、現老ノ坂の方が彫りが深いような気がします。さらに詳しく、一番わかりやすい山の字を比較してみま
す。 ![]() こうして並べると違いが鮮明になります。
![]() 3画目の跳ねは明らかに違うものです。ほかの文字を見比べても、同じ癖ではありますが、それぞれが微妙に違います。よってこの2
基の銘は、どちらかが後の時代のコピーではなく、文字に再現性がある方が、ほぼ同じタイミングで石に墨書したものを彫ったのでは ないかと考えます。ただしそれが、近代をも含めてどの時代だったかまではわかりません。 |
2026/02/01
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從是東山城國 |
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山陰街道 老ノ坂峠に建てられていたものとされる。現在は京都国立博物館に。 |
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表面はフラットに加工されており、左右の面も虎目になっていますが、裏面は加工が少なく石を割ったままのように見 えます。 |
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高さ 122×横幅 33×奥行 24(cm) 現在の全高は122cmですが、本来は地中になる荒加工部が露出してい ます。国境石としての竿石部は「国」のすぐ下までとなり、高さは100cm程度になりそうです(現老ノ坂峠の山城国境石 の全高も100cm)。 2026/02/01 |
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