| |
現中島(なかのしま)町の浜田領境石は個人宅の庭にありますが、前回訪問時にはご不在だったため、敷地外から撮影した画像で の仮公開としていました。2025年の萩・石見空港マラソン全国大会にエントリーしましたが、スケジュールを検討すると帰りの特急に 乗車までの時間がゆっくりあったので、中島町の浜田領境石を取材できればと地元の公共機関を通じて取材可能かの問い合わせを いたしました。 何度か連絡していただいたようですが、「電話がつながらない」とのことで結局時間切れとなりました。当日はあきらめきれずに、シャ トルバスで益田駅まで戻ったのち、中島町の該当のお宅までぷらぷら歩いて行ったのですがやはりご不在でした。不在というよりも庭 に人の手は入っているものの、居住はされていないような雰囲気でした。 今回も取材には失敗しましたが、取材に備えて少し調べたことがあり追記したいと思います。 現中島町の浜田領境石に関して、「美濃郡中島村は浜田領だが、高津川対岸の高津村は津和野領である」と記していました。ただし 設置場所の特定はしていません。 京都大学貴重資料デジタルアーカイブに石見国絵図が公開されていますが、この絵図は注釈で定本 奇兵隊日記の別冊絵図とされ ています。そうであれば幕末の戦時絵図といいますか駐留絵図でしょうから、必要と思われる部分はデフォルメされており、一方、山間 部には最低限の書きこみしかないどころか「不分明略ス」と空白部分もあります。よってこの絵図を無条件に受け入れることはできませ んが、この絵図に台座(もしくは枠石)の上に座った「従是濱田領」の領境標が描きこまれています。 場所は往還(赤線)上の益田と高津川の「ワタシ舟」の間です。角川日本地名大辞典 島根県 益田市 須子村(近世)には「益田・高 津街道の要衝であり、越峠(こいとう)には津和野藩・浜田藩の番所があった」、また「高津川対岸の高津村とは大渡しの渡船による」と されています。 須子村の東隣りにあたるのは同郡下吉田村(浜田領/栄町)ですが、同辞典の同市 下吉田村(近世)には「越峠に津和野藩境の 陸番所があった」と記されています。平凡社日本歴史地名体系の島根県:益田市>下吉田村には、現在の「栄町・中島町」にあたり「浜 田藩の番所が越(こえ)峠に作られ」となっています。下吉田村の一部が現在中島町となっているとされるのは、山陰本線・山口線の線 路を限りに区画整理されている程度ではないかと想像します。 奇兵隊日記石見国絵図の「従是濱田領」領境標の描きこまれた位置や両領番所があった事実から、この近隣で象徴領境石※が建 つ可能性が一番高いのは、益田・高津街道上の下吉田・須子境と考えます。よって現中島町の民家にある浜田領境石は、越峠(「こい とう」もしくは「こえとうげ」)に建てられたものではないかと推測します。 ※浜田領境石は現中島町の1基の他に、三坂峠及び山陰街道の2基(嘉久志・扇原関門)の計4基を確認していますが、いずれもサ イズ感が同じで三面彫りです(ただし中島町石は未計測かつ一面の文字しか確認できておらず、近世以前の土木・産業遺産のデータ による)。他の3基は往還上に立つ象徴領境石ですので、中島町石も領境争いの結果もしくは予防のために建てられた実務領境石で はなく、往還上に建つ象徴領境石と判断しています。 往時の益田・高津街道が現在の国道9号線どおりの道筋とは限りませんが、国道9号線上の栄町(下吉田村)と須子の境は、地理院 地図上ではこのあたりになります。 ![]() 再訪問時にこのあたりを歩きましたが、確かに峠になっており、現在の国道9号線は切通してあるようです。下吉田村は明治8年に 中島村に編入しており、近代以降の例えば国道9号線を切通したタイミングなどで、下吉田村の浜田領境石が中島町の民家に運び込 まれることはおかしなことではないでしょう。 また、奇兵隊日記石見国絵図には江田(郷田)に「従是銀山領」の領境標も描かれていますが、こちらは下に台座状のものはありま せん。この銀山領境標は嘉久志の浜田領境石と相対するものになり、土床坂に浜田領境石と並んで建っていたものと推測します。代 官支配の地に建つ領境標は木柱だったはずですので、台座は描かれていないのでしょう。参考として、吉田松陰が見た肥前の代官境 標に関する記述(9月4日を参照)。(ホームページ国境石散歩に飛びます) なぜ銀山領境標だけが描きこまれ、嘉久志の浜田領境石は描かれていないかが疑問ですが、扇原関門には浜田・津和野領境石が それぞれ建っている例から、越峠にも浜田・津和野両領境石が建っていた可能性があります。可能性があるというよりも建っていない とおかしいと感じますが、奇兵隊日記石見国絵図の越峠(と思われる場所)には浜田領境石しか描かれていません。 奇兵隊日記石見国絵図は長州軍の駐留絵図というべきものであれば、道標代わりの目印としてここに境標が建っているという情報 だけでよく、浜田領も公料も長州占領下に置かれたわけですから(津和野領亀井家は長州征伐に中立)、どことどこの領境であるとい う情報までは必要なかったのかもしれません。 なお、奇兵隊日記石見国絵図には益田〜津和野間の旧山陰街道の記載がありません。「従是濱田領」が描かれた往還が山陰街道 である可能性がないかを検討してみたのですが、往還上に「高津ヨリ一リ」と記されており明らかに益田と高津川の渡しを結んでいま す。余計なことですがつい益田駅を基準に考えてしまい、高津まで4Kmもないだろうと一瞬思ってしまいましたが、益田駅周辺は上吉 田村(浜田領/駅前町・赤城町・常磐町他)域となり、益田村(浜田領/本町・七尾町他)と高津村は確かに1里離れています。 よって、奇兵隊日記石見国絵図には扇原関門の津和野・浜田両領境石への言及がありません。また、同絵図には星坂の記載があ るのですが、星坂の津和野領境石にも触れられてはいません。 |
2026/01/01
|
| |
国立公文書館デジタルアーカイブから天保の石見国絵図で見ると高津川と益田川は別の水系で、中嶋(なかのしま)村と中須村(浜 田領/中須町)は中吉田村(浜田領/中吉田町他)や須子村と陸続きになる現在と同じ姿です。ところが奇兵隊日記の別冊絵図石見 国絵図では、マス田川と高津川が合流し、中嶌(島)と中ツ(中須と思われる)がそれぞれ島(洲)として描かれています。 他の絵図を見ると、岡山大学池田家文庫から石見国絵図(T1−106/時期不詳)でも中嶋村と中須は島(洲)として描かれていま す。国立国会図書館リサーチから石見国絵図(慶安年間<1650年前後>とされる)では中嶋と中須は島(洲)ですが、両島は上流・下 流ではなく横並びに描きこまれています。 この中島村と中須村の各絵図における描かれ方の違いが気になったので、少し調べてみました。 平凡社日本歴史地名体系 島根県:益田市>高津村には「高津川の下流は元和以前は、須子村あたりから吉田平野を横断して今市 村(浜田領/乙吉町・あけぼの本町等)付近で益田川に合流して、久城村(浜田領/久城町)で日本海に注いでいた」とされています。 江戸以前の高津川の本流は、須子村・中吉田村と中島村の間を流れて益田川に合流する、当時は水系という概念はないでしょうが 同じ水系だったようです。ただし、それだけならば中島と中須は高津村と陸続きの格好になり、中島・中須との地名にはなり得ないでし ょうから、現在の高津川の流れに沿うような形で・また中島と中須の間にも分流があったのでしょう。絵図に描かれるほどの川幅や水 量があったかは別にして、その姿は奇兵隊日記石見国絵図や慶安年間石見国絵図に近いと言えるのかもしれません。 同辞典 同県:総論>高津川では「元和3(1617)年津和野領主 亀井政矩は高津川の河口を自領化するために河道の付け替え工 事を行い益田川と分離した」とされてします。同辞典 同県:益田市>中内田村(津和野領/内田町)では「元和年間に虫追(むそう)村 (津和野領/虫追町)のライコウ(小名<小字>と思われるが詳細不明)から高津川を分流させ、飯田村(津和野領/飯田町)の南部を 回って下飯田で高津川と合流させた」となっています。 いまはもう役目を終えて平時の水流はほとんどないようですが、この川を堀切って白上川へ水を流したようです。しかし旧高津川の本 流は、下飯田の高津川と白上川(高津川派川)の合流点よりもさらに下流で吉田平野方向へ流れていたはずですから、白上川(高津 川派川)の流れが大きくなることによって、高津川の左岸寄りの流れは強くなったのかもしれませんが、それだけでは現在の高津川の 流れとはなりそうにありません。 元和から始まった河道付け替えは寛永期(1624〜1644年)まで続いたようですから、高津村と中島村の間を大きく深く開き、現在 の高津川の本流を形成していったのでしょうか。 毛利家が防長2州に押し込められて以降、石見国は幕府の直轄地となり、津和野領坂崎家の預かりとなっています。坂崎家が元和 2(1616)年に断絶し、翌元和3(1617)年に亀井政矩が津和野に移封してきます。一方、元和5(1619)年に古田重治が石見国の 一部を与えられ浜田領が成立します。 よって、高津川の付け替え工事を始めた元和3年当時は、浜田領はまだ成立しておらず、津和野領と津和野預かり地内での川の付 け替えになります。当然幕府の許可は必要ですが、そこは洪水対策とでも言いようがあり、他領(私領)との水利権争いは発生しない 状況だったのでしょう。日本歴史地名体系 高津村には「(高津川の)河口が他領にあるため港を作れず、荷駄を途中で荷揚げして飯 浦港へ陸送した」となっており、預かり地とはいえ公料に港湾施設を作ることは出来ず、高津あたりで荷揚げして飯浦港まで陸送して積 出港としていたために、津和野から直通の港を欲したのでしょう。 余計なことですが萩・石見空港マラソン全国大会を走った経験から、空港周辺はアップダウンばかりです。高津川〜飯浦港の陸送 は、現在は北浦街道とされている浜通りだったと想像します。 もし、元和5年の浜田領成立以降に高津川の付け替えを計画したならば、益田川河口の水量が約半分になり良港ではなくなる可能 性がある浜田側の猛反対があったはずですから、計画通りに事が運んだかは疑問です。亀井家が津和野に入部したのが元和3年7 月とされています。同年中に高津川の付け替えに着手したとされるのは、当初は事務的な手続きだけだったとしてもちょっと手際がよ すぎるような気もしますので、証拠はありませんが坂崎統治時代からそのような話はちらほらあったのかもしれません。 島根大学付属図書館デジタルアーカイブに公開されている元禄石見国絵図(石見国天保国絵図懸紙改切絵図/所蔵は浜田市教育 委員会)は、天保の国絵図作成のために元禄の国絵図に懸紙(貼り紙)をして修正したものですが、元禄の国絵図当時は島だった中 島村・中須村が、上から貼り紙をされ陸続きに修正されている様子が見られます。 この絵図の修正跡を見る限り、新高津川は浜田領側である中島村も削られて、流れをまっすぐに通してあるように見えます。しかし、 須子・中吉田と中島・中須の間や中島と中須の間の旧高津川が陸地化していますので、中島村の面積はそれほど変わらないのか、逆 に増えている可能性すらあります。 現在の該当地域を見ますと、中須町は中吉田町とは接しておらず、中須町と中吉田町の間には中島町とかもしま各町が広がってい ます。かもしま各町の旧所属は益田市の土地区画整理事業のHPから見ることが出来ますが(リンク先はPDF)、縁部を除きほぼ旧中 島町域とされています。中島村が新高津川に土地を削られた代償に、陸地化した旧高津川跡をすべて中島村に付けたイメージでしょう か。 幕末に作られたはずの奇兵隊日記石見国絵図の益田川・高津川の姿は、江戸初期の形と言えます。単純に参考とした絵図が古か っただけかもしれません。 |
2026/01/01
|
|
|