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従是北篠山領 |
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丹波国多紀郡油井村の内 草野村(篠山領/丹波篠山市草野)と摂津国有馬郡日出坂村(三田領/三田市藍本)の 間、国立公文書館デジタルアーカイブ天保の丹波国絵図では草野峠・同天保の摂津国絵図では日出坂峠とされる国 境(領境)峠に置かれたものとされ、現在は近隣の民家に移設されています。 日出坂峠(草野峠/領境石の原位置)は舞鶴若狭自動車道上になっているようです。 |
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国道176号線上の丹波篠山・三田市境に建つ「日出坂峠と藩境の碑」案内板では、この往還は「大坂街道」となって いました。西宮市にしのみやデジタルアーカイブから慶長の摂津国絵図では「丹波越 但馬道」とされています。 ![]() 外様36,000石の三田領九鬼家側の領境標は、幕末まで木柱だったと伝わっています。平凡社日本地名体系 兵庫
県:三田市>日出坂村には「元禄3(1690)年に丹波国油井村・古森村・当野村(すべて篠山領/丹波篠山市)との間 に摂丹国境山論が起きたが、日出坂村赤井家所蔵の地図や古文書のおかげで、同9年に日出坂村が勝訴した」とな っており、日出坂村庄屋 赤井五兵衛はその間京都に滞在し続けて折衝に当たったようです。その件は三田市が公開 する三田の民話100選(下)にも「村山を守った五兵衛さん」として掲載されています(リンク先はPDF)。角川地名大辞 典 兵庫県三田市 日出坂村(近世)によれば、この時に守った山林は「300町余(約3平方キロメートル)」とされていま す。 無断侵入等の誤解があるといけませんので、見学の経緯を記しておきます。
2025年G.Wに丹波・但馬の追加取材を行いました。この領境石の存在は知っていたものの、近隣民家に移設されて
いるとの情報しかなく、その詳細な場所は不明でした。そこで旅行の1ヶ月ほど前に、地元公共施設へ場所の詳細と取 材可能かの問い合わせをいたしました。 地元で調整をしていただいたのですが、とある事情で結論が出ないまま時間切れとなってしまいました。私はその時点
で、ひとつ前の取材地から篠山口駅までの特急列車を予約していましたので、せめて日出坂峠の雰囲気だけでも感じ ておこうと、移設場所不明のまま草野駅に降り立ちました。 事前の地元とのやり取りの中でいくつかヒントとなるものがあり、また上記の「日出坂峠と藩境の碑」案内板からも情報
を得、このお宅あたりではないかというところまではたどり着きましたがご不在でした。 あきらめきれずうろうろしていたら、ちょうど道路に出てこられた方がいらっしゃったので、意を決して「このようなものを
探しています」とお尋ねしたところ、「となりだからその存在は知っているが、そんなものを探しに来る人がいるとは」と驚 かれ、「その家は現在不在だが、私が案内するから入ってよい」と案内していただき、取材に立会ってくださいました。 事前の情報通り、道路からは見えない庭の入り組んだ場所に建っており、もし近隣の方に出会わなければ、取材どころ
か遠目に見ることさえかないませんでした。 その方がおっしゃるには「いつからこの家にあるのかは不明」とのことでしたので、舞鶴若狭自動車道(この区間は19
88<昭和63>年開通)の建設用地に掛かる以前にはすでに移設してあったのかもしれません。 |
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高さ 123× 横幅21.5× 奥行21.5(cm) 2026/01/01 |
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安政7(1855)年発給の篠山領青山家の領知目録とされるものから、多紀郡の村を拾ってみました(すべて現丹波篠山市)。領知目録には各村の石高は記されていませんが、参考のため付しています。石未満を四捨五入したため、切り捨てて「余」としてある天保の丹波国絵図とは下一桁に誤差があります。 水色文字は旧高旧領取扱高データベースでは、「『篠山封疆志』に村名なし」との理由で旧領名の記載がない村です。安口(はだかす)村(及び西野々村・下原山村・中原山村・奥原山村)は亀山領の村で、安口村には篠山の越石があるだけですので、篠山封疆志(松崎蘭谷/享保元<1716>年)には記載がないのは当然なのでしょう。 丹波志(古川茂正<福知山領朽木家中>・永戸貞著<篠山領青山家中>/寛政6<1794>年)には、塩岡(しおか)村は小立村の支郷、大谷村と佐倉村は寺内村の支郷とされていますので、丹波志以前の篠山封疆志ではこの3ヶ村は単独村として扱われていないのでしょう。網掛村・垣屋村・山田村はそれぞれ慶長のころからの篠山領とされており、なぜ篠山封疆志から漏れたのかは不明です。 |
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目録 丹波国 多紀郡之内 百拾箇村
高五万八百三拾六石壱斗三升八合 |
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2026/01/01
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多紀郡だけを掲載するつもりでしたが、私の興味から領知目録に記載される篠山領全体を調べてみました。 |
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領知目録 桑田郡に掲載されるのは以下の37ヶ村で6,350.23110石とされていますが、旧高旧領取扱帳データベースからこの37ヶ村(本村の内とされる中熊田村と小淵村を含まない)の石高を足すと6,354.59908石と4.4石の微妙な差があります。(越石の石高が確定できない多紀郡を除き)他郡・他国では領知目録と旧高旧領にここまで大きな誤差はありません。
また、私は領知目録には「神吉上村之内」と書かれていると読みましたが、神吉上村は全村が篠山領です。神吉3村のうち神山下村が本村とされ(旗本武田氏知行地)、枝村の神吉上村と神吉和田村が篠山領となりますので、「神吉下村之内」ならばわかるのですが、この部分が私は理解出来ていません。
さらには桑田郡内には他にも篠山領と思われる村が神吉和田村を含め10ヶ村897石余あり、急に領知目録の信頼性が不安になってきました。以下、領知目録から漏れている桑田郡篠山領であろう村、及び旧高旧領取扱高データベースでは篠山領とされるが、篠山領となったのは明治以降(明治前後)と思われる村も別途記載しています。
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桑田郡之内 三拾七箇村
高六千三百五拾石弐斗三升壱合壱勺
以下の村は領知目録には記載がないが、旧高旧領取扱帳データベースでは篠山領とされ、他の資料からも篠山領と思われる村。(角)角川日本地名大辞典・(平)平凡社日本歴史地名体系の記述。
以下の村は旧高旧領取扱帳データベースでは篠山領とされるが、篠山領になったとしても明治前後の可能性がある村。(角)角川日本地名大辞典・(平)平凡社日本歴史地名体系の記述。
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摂津国の3ヶ村はいずれも延享4(1747)年より篠山領とされています。篠山は元々摂津国島下郡に領地を持っていたものの、同年武庫郡に替地があった(宝塚市史 第2巻 篠山藩飛び地の成立)とされていますが、替地の理由には触れられていません。
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摂津国
武庫郡之内 三箇村
高七百七拾三石七斗七升八合七勺
旧高旧領取扱帳データベースの石高を足しこむと773石782943となりぴったり(4合は誤差とも言えません)合います。
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遠江国の各村は文政10(1827)年より篠山領とされています。同年に青山忠裕が1万石の加増を受け、この時に遠江の領地を付けられています。しかし、角川地名大辞典 静岡県島田市 南原村(近世)では「(南原村は)天保13(1842)年より篠山領」とされています。平凡社日本歴史地名体系静岡県:島田市>南原では「享保2<1717>時点で相良領」までの記載しかなく、その後のことには触れられていません。確かに南原村だけ榛原郡の篠山領の村とは地理的に少し離れています。
この時の加増は1万石と言われていますが、遠江国榛原郡城東郡之内郷村帳(文政11年)に「(加増は)一万二四八石余」とされています。領知目録に書かれる両郡の石高を足すと10,248.0021石となり郷村帳の記載通り10,248石余です。
一方、旧高旧領取扱高データベースから南原村を含む該当24ヶ村の幕末(明治初め)の石高を足しこむと、10,248.01222石になり領知目録より一升だけ多くなります。一升は誤差とも言えずほぼ同じと言えますので、南原村も文政10年の加増の際に他の村と一緒に付けられたと判断しています。
なお、遠江国内の篠山領各村が新田を持っていますが、私は田中領 その他の田中領境石の欄で、村境の混沌としたさまを「大井川沿いの肥沃な大地に新田開発を競い合った結果であろう」と書きました。同じように榛原郡の村は勝間田川や坂口谷(さぐちゃ)川沿いの、城東郡は菊川とその支流沿いの(たびたび氾濫する)肥沃な大地に新田開発を競い合った結果、枝村とするほどまでには大きくはない(人が移り住むに至らなかった)飛び地新田を各村が持っていたのではないかと推測します。飛び地であればこそ3ヶ所にも分かれる例があるのでしょう。
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遠江国
榛原郡之内 拾箇村
高三千四百四石八斗弐升七勺壱才
城東郡之内 拾四箇村
高六千八百四拾三石壱斗九升壱合三勺九才
都合六万石
他
三百七拾九石七升九勺 是者物成帳込高也
七千八百弐拾九石八升九合 是者新田改出也
となっており、合計は68,208.1597石となります。領知目録記載の各郡の石高をすべて足すと68,208.1599石となりましたので、各郡ごとの石高には物成帳分と新田分がすでに含まれた数字のようです。ちなみに旧高旧領取扱帳データベースから領知目録に掲載される各村の石高を足しこむと68,194.873601石とごくわずかな差がありますが、この数字は安口村にある越石を含まないものです。
物成帳がなにを意味するのかはわかりません。一般に物成と言えば本途物成(年貢)や小物成(年貢以外の税)を思いますが、上記のようにこの380石は領知目録の各郡の石高や、旧高旧領の各村の石高に含まれています。174ヶ村(領知目録の総村数)で380石ですから、1村平均2.18石ほどの計算になります。
角川日本地名大辞典から兵庫県篠山市 各村(近世)を見ますと、山役(山林利用税)の記載があり、例えば209石の網掛村には2石1斗余・673石の犬飼村は2石7斗余・487石の宇土村は4石2斗余が記されています。すべての村に記載があるわけではないので確定的なことは言えませんが、山の恩恵を多く受ける村に割り当てが多そうなイメージです。
これのことかとも思いましたが、同辞典 京都府京北町 各村(近世)では山役銭として記載があり、23石の片波村で8貫280文・39石の灰屋村は4貫200文・28石の初川村は2貫400文が割り当てられたとされており、現金納付だったようです。桑田郡南丹市側・摂津国・遠江国の村では山役に関する記述は確認できません(平凡社日本歴史地名体系 静岡県:小笠郡>菊川町>沢水加村には「正保郷帳 山札高2石余」の記載があるのですが、篠山領になるはるか以前です。)
城付きの多紀郡は米で収納し、遠方は現金で納付させたのかもしれません。多紀郡110ヶ村の山役だけで380石ありそうな気もしますが(380石÷110ヶ村=3.45石)、サンプル数が少ないために何とも言えません。
この他、旧高旧領取扱帳では船井郡にも篠山領の村が見えますが、こちらも明治前後の編入となるようです。
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2026/02/01
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